It’s suit you.

「今までバスで移動してたけど、今日は歩いて駅まで行ってみようかな。」

 

コートをシャツの上に羽織る程度には肌寒い昼下がり。

そんな事を考えついて、30分もかかる目的地まで景色を見ながら足を動かすことにした。

 

背中には2リットルの水筒と太いテキストが入った大きなリュック。重い。

でも空は青いし、どんな景色が目の前に現れてくるか分からないワクワクがあるから、気分は軽い。

 

ふと目をやると、リユースショップを見つけた。

いつもなら何も考えずに通り過ぎるのだが、今日は何かが違った。

 

「このあと予定無いし寄ってみるか。」

 

僕の靴はそのまま軽い足取りで、黒い戸建ての小さな店に向かう。

 

自動ドアが開くと、店内は広くて煌びやかとは決して言えない、人がすれ違えない幅の通路と、敷き詰めるように並べられた商品たちがその世界観をあらわにしていた。

 

なんだか面白いものが見つかりそうな気がするな。

そんな気分が動いていたので、ワクワクしたものを手にとってみることにした。

 

今日は、昔の小さな自分にワクワクを手渡そう。

どうぞ、好きなものを選んでくれ。俺がなんでも買ってやる。

 

 

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『そのファッション、ダサいよ。』

 

 

 

人類の全てと言っていい。

 

服を着る人は誰しも、良かれと思って自分の好んだものを選び、それを選んだ意思と共に、自分の一部として服装を見に着ける。

 

 

その服装に、正解や不正解があるかどうかは分からない。

 

少なくとも僕は、その人の中ではそれが正解である。と考える人間だ。

その人の心から生まれた選択が、そのまま形になっているのが服装だと思っている。

 

 

ただ、その心の使い方が綺麗に反映されていれば、世の中に生き辛いと考える人は少なくなるはずなのだが、不思議なことに、世間のファッションセンスがそれを除け者にしてしまう。

 

オマエの選んだ服装は、女の子に好かれないファッションだ。

オマエが着ているシャツは、礼儀正しくないファッションだ。

 

1人の人間が自らの意思で選んだ服装に対してケチを付けられる。

 

 

だがそれとは別に、本来そのファッションはその人にとっては正解のはずだ。

その人の心と意思の現れなのだ。

 

 

 

「そのファッションはダサいよ。モテない。これに変えろ。」

 

近年はこんな風潮がSNSを中心に飛び回っているように思う。

もちろん他人に注目される為には時には手段を選ぶことになる。

だが、服装を削ぎ方を間違えると、その服装を選んだ人の意思自体を削ぐことになる。

 

 

人生とは自分で選択することの連続で成り立っているものであり、間違っても他人に決定されるものではない。

 

だが、親の言う通りにしようとか、世間に良い評価を貰おうとか、そうした「意思決定を他人の軸で行う」ことを繰り返していると、次第に自分の人生を生きられなくなる。

 

 

ファッションの話で言うと、他人からの評価を上げるための意思決定がメインとなったり、そのためにコンサルタントを雇って意思決定を委ねたり、その為に大金を払ってコミットする事になると、もはや「他人の意思決定世界」から逃れられなくなる。

 

そして極め付けは、そうやって他人の意思決定で作り上げた自分を「これが俺の姿だ!」と誤認する事で、自分に戻れなくなる。

 

そうやって手に入れた上辺の“センス”とやらと引き換えに、大事なモノを失う。

それは「自分の意思決定」という心の核だ。

 

いや、もはや、センスすら失っているのかもしれない。

”自分の心で素直に生きるセンス”が削られていく事に、ほとんどの人は気づいていない。

 

 

キラキラ生活を表面に見せた、本人も自覚していないボロボロの心がそこにあるのだ。

 

 

人生においても、親や教師の命令で行動を決めざるを得なかったり、叱責などの不利益を回避しようとして周りの意思決定を合わせていると、大人になってから「周りの意思=本当の自分」と誤解することになり、大事な決断でも誰かの意見を求めることになる。

 

この状態では、自分オリジナルの人生を生きる事など出来ない。

 

誰かの作った自分で生きていくか、永遠に見つからない自分探しに彷徨って病むことになる。

 

 

 

現代では、「自分の人生を生きる!」と意気込んでいる人が増えている。

そして同時に、そう意気込むような人は、永きに渡って誰かの人生を生きてきた人間だ。

反発心や改善心から、それを思うのだ。

 

”自分の人生”を生きたくなる衝動に駆られるのだ。

 

 

しかし、どうだろうか。

自分の意思決定で生きて来たことのない人間に、自分の意思など分かるのだろうか?

 

結局そういう人間は、ファッションがダサいと言われたその人のように、誰かの作り上げた人間になるために、誰かの意思決定を採用し続けることになる。

 

 

これは立派な「他人軸」である。

 

 

そういう人間にとって、自分の意思はそんな簡単には見つからない。

今頑張っている事も、誰かに植え付けられた偽物の意思かもしれない。

 

 

そんな弱い意思決定につけ込んで、世の中には善意も含め、強引に意思を植えつけてくる人もいる。

 

だから、大きなコストを払ってまで誰かの意思決定に沿う生き方はもう辞めて欲しい。

大きなコストは、貴方が自分の意思決定を成長させて”自分の人生”を歩むために使うものだ。

 

 

 

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心の意思決定を、昔の小さな自分に託して服を手に取ってみた。

 

 

よく分からないボロボロのデニムジャケットだ。

 

 

「なんだよそれ、似合わねー。やっぱお前ダサいわ。」

 

 

現代の自分がそう言っている。

 

いや、”誰かの意思決定に染まり切った自分という仮面を被った化け物”が、そう言っているのだ。

 

 

お前は俺じゃ無いだろ。

 

今この服を手に取った俺が、俺だろう。

 

 

今はもう昔とは違い大人だ。自分でなんでも選べるし、買えるし、行ける。

自由な意思を尊重しても、誰も文句を言う奴はいない。言うとしたら偽物の自分だけだ。

 

 

いつまでも、自由に動ける癖にベソ掻いて縮こまってんなよ。

 

 

本当の心は、ダサい。

ただ、ダサさの向こう側に面白いモノを持っている。

 

 

いや違うな。

ダサくない。

俺という人間を表現した、最もカッコいい選択だ。

 

 

その隠し持ったファッションセンス、もっと見せてくれよ。

 

 

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貴方の心と、本当の意思は、いつか貴方が蓋を開けてくれることを待っている。

 

深い闇の底で、反ベソをかきながら、半ば諦めて拗ねながら。

 

 

ソイツを見つけられるまで、貴方の意思はグレーかもしれない。

 

100%ホワイトになりたければ、ソイツを見つけにいくことだ。

 

それは一夜で解決するようなものではなく、長旅になるかもしれない。

ただ、それが自分の人生を生きるということだ。

 

 

そしたら貴方が本当に求めていた、「周りにコントロールされない”自分の人生”」になる。

 

ビックリ仰天で一夜で変わるような、そんなテクニックが無いことはもう分かっただろう。

そんなのは誰かの意思決定を貰ったに過ぎない。

 

 

ダサく生きよう。

 誰かにカッコ悪いと言われてもいい。

それが貴方にとって一番カッコいい生き方なのだから、誰もそれに意見する権利なんて無い。

 

『 It’s suit you. (似合ってるよ)』

 

数年前にイギリス人の女の子が教えてくれた言葉だ。

これを全ての人に捧げる。

 

 

矯正されるな。

自分を蔑ろにするな。

 

正直に生きろ。 自分と生きろ。

 

 

 

 

 

 

 

〈追伸:全ての教育者へ〉

相手のやっている事が間違いだと確定させた瞬間、矯正させようと動いた瞬間、その人は自分の意思を見失う。

黒を選んだその思考は、その人の意思。指導者が白を与えることは出来ない。

黒を選んだその意思を尊重し、どうすれば意思決定を保ったまま理想に近付けるのか、相手がどうやって自分自身で一歩目を踏み出すのか、そのサポートを全力でやって頂きたい。

相手はまだ、自分の本当の意思を理解していない場合もある。

だからこそ、未確定の意思決定の土台に、他者の理想を埋め込まないで欲しい。

それはもはや、自分の子供に理想を押し付ける親を変わらない。

相手のことを本当に尊重するなら、今回の記事から何かを得て欲しい。